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相手はしばらく黙つていた。だが、場所が高いのと、柵の中にいるためか、落ちついて答へた。
「よく来てくれましたな。けふはゆつくりしてもかまはんのでせう。あんたは碁を打ちますか。――さうですか、御存知ないですか。それはちよつと。まア、しかし、こんなものは覚えん方がいゝかもしれませんなあ」
「かういふ玩具おもちやのやうなものを出して、年甲斐もないことでした」
そこへ降りた時から徳次はもう帯をほどきはじめて、肩にかけただけの衣物を着茣蓙きござのやうにはたつかせながら、誰憚ることもなしに大股で歩いた。日にぬくめられた石ころからは、生暖い、乾いた空気が立ち上つて、足から胸へつたはつて行き、それから思ひがけないときに頬のあたりにぱつと快く触つた。前方には河水のきらめきがあつた。その向ふには草に蔽れた崖地があり、その稍やゝ高味を路が走つていた。そこは滅多に人が通らないところである。たゞ日に一二回、徳次にとつては商売仇である荷馬車の列が、ゆるい、だるい車の音をたてながら、馬は眠たげに首を前に垂れながら、そして挽子ひきこは手綱をどこへ抱へこんだのかと思はせるやうに腕組みをしながら、その崖上の路を地勢に沿つてひよいと見えなくなつたり、又現れたりしながら通つて行くのである。たまに自転車が通つた。それは音がしない。それから何の行商人か、箱を背負つて、紺の脚絆をはいた足をかはりばんこに前に出して歩くのを、こつちから見ると、何てまあ面倒くさいことをして歩くんだらう、あんな風にして一体どこまで行く気なんだらう、と思はせたりした。それも、わざわざ気をつけてでもいないかぎりは耳にも入らないし、目にも入つて来ない。在るものはただ、ゆるい野放図な空気、どんなに踏んぞりかへつても喚いても、たゞすつぽりと包んでくれ、身軽るにさせてくれる空気だけだつた。
「さうです。相談があるからと云ふんで帰つて来たんですが、僕なんか何も問題はありませんよ。返すものがあれば、いつでも返します。何もないんですよ。家と、田地が少し。それも抵当に入つていますよ。僕がしたわけぢやない。兄貴が選挙の費用だの何だので金が要つたのでせう」
胡坐をかいた道平は今膝小僧までまる出しにしていた。それも日に焦げている。
「どういたしまして。お茶位さし上げんと」
病症は大体察していた通りの単純な乾性肋膜炎であつた。熱の工合を見ても進行性ではないし、他の部分にも異状はなかつた。だが、房一は念入りに診察した。この病気は念入りに診察するだけで患者にとつてもはたの者にとつても少なからぬ気休めになるものだといふことを承知していたからである。そして、今まで医者にかゝらずにいたわけはない筈だから、多分大石練吉に診てもらつていたにちがひないが、いつ診ても目立つて変化のないこの病気は医者にとつてもかなり退屈なものだし、あの練吉が終ひにはいゝ加減で切上げるやうになつて、患者側の不興を招いたとも想像された。だが房一はそんなことには一切触れなかつた。彼はたゞ綿密に診察を終へ、二三の注意を与へ、更に一週間に一回の割で今後も往診に出向くことを約した。多少意外に感じたのは、一人息子がこの種の病気になつた場合の大抵の父親は、ひどく神経質になつて病状を根掘り葉掘り訊くものだが、相沢は房一が説明する以上のことは知らうともしないことであつた、だが、発病以来すでに幾人もの医者にかゝつたのは明かで、誰が診ても同じやうな症状を聞かされて、今では慣れつこになつているのだらう、と思はれた。
彼は背だけでなく、腕と云ひ胴体と云ひ、又その両脚と云ひどの部分もすべていやに長かつた。その手を差しのべて、房一を座蒲団の上に招じると、自分も対むかひ合つて座を占めた。すると、又もや長い両膝が蒲団の上からはみ出して、房一の方に向いてにゆつと二つ並んだ。
徳次は、両手に海苔まきとゴマをまぶした握飯と二つとも慾ばつて持ち、紙の袖をいやといふほどたくし上げ、冠をどこかへ脱ぎすてたので、いがくり頭ときよろりとした眼とを何かむき出した風に目立たせながら、足を踏んばつて云つた。
すると、何てこつた、下手の渡船場の対岸にひよつこり房一の姿が現れた。河原に出ようとするらしく、自転車を厄介さうにわきに抱へて、崖縁についた急な小路をのろのろと危つかしい恰好で降りて来る。やつと判つた。今の今まで、徳次はそこに渡船場があるといふことを度忘れしていたのだつた。
房一は自転車を降りて押しながら歩いた。しばらく行くと貯水池が見えて来た。あたりは松林で、その抜き立つた幹の間から水面が光つていた。向ふ側は半ば葉を落した雑木山だつた。いたる所が透いて、明あかるく、からりとした空気の中を時々つんと強い山の匂ひがした。
二人は間近かで眩まぶしげに眺め合つた。そのまますれちがつて、二三間行きすぎた頃、房一が見送り気味にふりかへるのと、相手が車の上から首をねぢ向けるのと同時だつた。そのはずみに男はひよいと地上に降り立つた。