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    「なんですか、御挨拶まはりですかね、それはどうも御苦労さまですなあ。――まあ、お上り下さい」

    徳次は明かに房一にくれようと思つていたらしかつた。で、間が悪さうにそこに立ちはだかつたまゝ、あのきよろりとした目でしきりに練吉と房一を見くらべていた。

    房一はにやりとした。水神淵と云へばこゝらで一番のギギウの棲家だつた。彼等はよく出かけたものだつた。岩の上に腹ばひになつて巣の前に糸を垂らす。すると、水底では今針から落したばかりの奴が懲りもせずに餌に食ひつく、水気で腹の下の岩は生暖いが背中は日でぢりぢりして来る。急に水にとびこんで身体を冷やす、それから又足を逆さに今にも落ちこみさうな恰好で岩の上に腹ばひになる。――

    一座はしづまり返つていた。何か緊迫した気配があつた。――とにかく、それは予定の中には入つていなかつた。こんな風に突然誰かが立上り、荒々しい声を張り上げ、何を云ひ出すか判らないのにぢつと膝をついて聞いていなければならぬとは!

    「時に、お宅は鍵屋の分家の後ださうですな。あすこは大分前から空家になつていたと聞いていましたが」

    それは六月も末のかつと輝いた午ひる近い一つ時だつた。いや、正午はもう廻つているかもしれない。畑地には道路のすぐ傍にあまり大きくない柿の木がぽつんと一本だけ立つていた。その葉はまだ新芽の柔かさを保つていた。日にきらきらしている。さうやつてひとりでに自分を磨いているみたいだつた。誰も表の道路を通らなかつた。

    「誰でも主人が出なくてはいけないきめでせう。すると、千光寺さんはどういふことになりますかね。坊主が神主の恰好をするのもをかしなもんぢやありませんかね!」

    「さつき着いたばかりの新聞で見たんだがね、――堀内将軍がいよいよ凱旋されるさうだ」

    房一はそれに目をとめていたが、急に強い口調で、

    「先生お帰りになりましたかね」

    それに、茂子がこんな風にひよいと家を出て実家へ帰つたまゝ、十日も二十目ももどつて来ないなんてことは、別に珍らしいことでもなかつた。たゞ、この半年ばかりは落ちついていたのである。もう慣れつこになつている。そのうち又舞ひもどつて来るだらう。来なければ来ないで、それでもちつとも差支へはない。要するに、どうでもよかつた。居ない間が気楽といふものだつた。

    房一は感動した。あの一言で、何もかも身のまはりが今までとちがつたやうに感じられた。何か一つ微妙なものがこの世のどこかでひよつこりと生れかゝつているのだつた。まだ目には見えないその隠れた、だがすでに在ることだけは確かな存在が、それだけでこんなにまはりの物を変へてしまつたのだ。それはひよつこりとしている、同時に彼にも盛子にもつながりのある不思議な或る物だつた。彼は職業柄アルコール漬になつた月別の胎児はいやといふほど見て知つていた。が、今彼の感知しているものはそれとは似ても似つかないものだつた。それはむくむくして、今はぢつとしているが、やがて動き出さうとし、やがて手をひろげ、やがて彼の肩だの腕だのにすがりつかうとしている、温い、柔い、――

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